中学受験・高校受験・内部進学の為の個別指導塾(小学生・中学生対象)吉祥寺・練馬・笹塚から中野駅行バス運行

中野数学舎

小学生(小4~小6)中学生(中1~中3)

雑 記

 子供のころ、幼稚園年長から小1にかけての僅かな期間、遠い記憶の中のほんの僅かな楽しい記憶。

 かつて西荻窪にあった児童劇団がその看板を下ろしたという。

 多くの有名人を輩出したという。

 私自身も木暮実千代先生(昭和を代表する女優であるが劇団の関係者ではない)の舞台に子役として上がらせていただき、全国をバスで回ったことを思い出す。

 私は自分の出ている舞台で演じる木暮実千代先生の芝居を出番が終わった後に舞台袖から見ていて、その演技を見ながら大きな声で号泣する妙な児童であった。

 大奥に息子と共に上がり、殿様の身代わりとなって毒まんじゅうを食べて死んだ息子(それは私の役)を忍んで泣く侍女の姿を演じる木暮先生の姿が、その声が放つ切なさに、私は耐えきれなかったのである。

 周りの大人が原因を知って大笑いする中、木暮実千代先生は私を抱きしめて喜んでくれた。自分の芝居が、出演者である子供の心をまで震わせるという紛いない事実をとても喜んで下さったのである。

 

 情操教育を担ってきた児童劇団の功績は、その姿がどこにも見当たらなくなったとしても、多くの人の心にいつまでも住みついてはなれることはないだろう。

 4月から土曜日に音感教室で算数授業を持つことになった。

 とても楽しみである。

 先日、猫がやってきて、自動ドアの向こう側から私に向かってこう言った。

 「びぃ。」

 そこで私は「D」と言い返してみた。

 猫は私を軽蔑するように横目でにらむと、入り口の自動ドアを引っ掻いた。

 「手動になってます」と私が言うと、猫は「それならお前が開けろ」と言わんばかりの横柄な態度で自動ドアの前に座り込んだ。

 教室に入った猫は机の上に飛び上がり、卒塾生からいただいたクッキーを珍しげに眺めていた。

 仕方がないので封を切ってひとつ差し出してみると、猫は当たり前だと言わんばかりにかぶりついた。

 しばしくつろいだ後、猫は「ぶぃ!」という変な音のおならを一発放って出ていった。

 私は「W」と続けてみたが、もう猫は私のことなど見向きもしなかった。

 雰囲気が伝わることが大切であるから、雰囲気を大切にしたい。日本語は大変難しいから、私もよく間違える。習慣も同じである。しかしながら、行動が確かに雰囲気を表していれば、たとえばちょっと常識を知らぬ人だと笑われたとしても、憎まれることはない。

 私の知り合いで、乾杯の時に必ず自分のグラスを私の上から重ねる人がいる。

 彼はそうしながらにやりと笑う。彼はその行為によって自分の何かを満足させているのだ。何ひとつ本当に満足されてはいないのだけれどね。

 そういった捻くれた気持ちは言語道断であるが、精一杯に取り繕っても現れてしまう可笑しさもある。

  ところで雰囲気をふいんきと読むことが誤用であると誰もが常識として知るようになったのは、パソコンが普及し始めてからではないだろうか?

 誤用も、時が過ぎれば正しいことになるのだから、誤用もへったくれもないのだが・・・。

 昨日、音感教室の先生と久しぶりにお会いし、週末にやらせていただく算数講座の打ち合わせした。

 先生は、私よりはるかに子供たちの将来について考え、そして教育の在り処について多くのことを語られた。

 私は先生のお父様の教え子である。

 先生は子供たちの将来について真摯に考えている。それは母親の気持ちである。私はどうだろう?

 最近の私は諦めている。失望したくないから。私はもっと真摯な気持ちに戻るべきだ。

 1、11、111、1111、11111、111111、1111111

 37×3=111

 337×3=1011

 367×3=1101

 367×3×100+337×3=111111

 7×11×13=1001

 3×37=111

 3×7×13×37×111=111111

 73×137=10001

 173×7=1211 

 37×33=1221 

 「この盃を受けてくれ、どうぞなみなみつがせておくれ。花に嵐のたとえもあるさ。さよならだけが人生だ。」

 三鷹市に住み、阿佐ヶ谷会に参加していた太宰治が師事した、井伏鱒二が訳した「歓酒」からの言葉です。

 去りゆく友に盃をたむけながらの台詞です。

 「今日は今日。花が嵐に散るように、何もかもには終わりが来るんだ。だから、さあ今宵だけは受けてくれ、俺の盃を受けてくれ。心一杯つがせてくれ。俺の気持ちを受けてくれ。」

 言葉は人それぞれが、各々の頭と心で受け止めるものだから、この言葉の解説も山ほど存在するそうです。

 「どうせ全ては虚しく終わる。人間なんてそんなものだ」と受け止める人もいます。決して間違えてはいないと思います。

 しかし、時に言葉は意味だけを受け止めるものではなく、その形状を楽しむものでもあるのではないでしょうか。感覚的なものや刹那的なものや音楽的なもの。

 「花に嵐のたとえもあるさ」なんて素敵な響きでしょうか。

 「サヨナラだけが人生だ」と書いてみてもいいし「サヨナラダケガ人生ダ」と書いてみてもいいかもしれません。

 でも、ちょっと響きがそれぞれに違うように思えませんか?

 私はこの「さよならだけが人生だ」に中原中也の「汚れちまった悲しみに」を連想させられました。

 何だか退廃的な孤独を感じてしまうのです。

 しかし、退廃的な孤独が放つ透き通るような寂しさのなかには、何かを諦め、ふっきった者だけが感じられる涼し気な優しさが満ちているようにも思えるのです。

 「まあいいさ。ええままよ。」といった感じでしょうか。

 「どうか今夜だけはここにいておくれ。」まだまだ時代が未成熟で、命がたやすく失われていた時代に、この言葉は人の心に今よりもずっと深く響いたのでしょう。

 「この盃を受けてくれ、どうぞなみなみつがせておくれ。花に嵐のたとえもあるさ。さよならだけが人生だ。」

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